今年はお米作りにおいて多くの課題がありました。これまでの平均収穫量は10aあたり6俵(360㎏)でしたが、今年は平均で4俵(240㎏)にとどまり、一部の田んぼでは3俵にも満たない状況でした。収穫量が少なそうとは予測していましたが、予想以上の減少には驚きました。そのため、ご予約いただいたお客様の中には出荷量の調整をお願いすることとなった方もおり、大変申し訳なく思っております。ご理解とご協力に感謝いたします。
山間地である串原の田んぼでは収穫量はもともと少な目で、近所の慣行農法の農家さんでも7.5俵くらいが平均です(一般的な平均は10俵くらい)。そのなかでも今年は串原全体としても過去10年の記録のなかで一番収量が少ない年となりました。病気等が大発生した年よりも少ないのに、その要因がハッキリと分かっていないのが現状です。山間地での農業の厳しさを改めて実感しています。これほどの減収と見通しのつかなさでは経営的にも厳しい部分もあり、今後にむけて今一度栽培の振り返りとより深い生育知識の習得をする必要があると実感しました。
2020年から農園を始めて以来、色々な困難に直面してきましたが、(家のセルフリフォーム時のシロアリ被害発覚からの柱交換や、沢水の氾濫、土砂崩れ、農機具修理中の試行錯誤など)途方に暮れながらもなんとか解決してきて今があるので、今回もこれを機に何かしらの解決策を見いだしていくのだろうとは思います。ただ、今のところ今回はその途方に暮れ具合?が少し大きめだなぁという感じです。つらつらとまとまりのない文章ですみません。でも、正直な今の自分の気持ちをお伝えしました。
限界集落と言われる場所にあえて飛び込み、そこに面白そうな暮らし方があると思うのです。何となくその暮らし方のヒントになりそうな文章を見つけたので、ここに転載させていただきます。
【つる詳子さんのお話】
ダムができる前の大水時に、流域の人がどう暮らしたかは、川の傍に住んでない人や若い人は殆ど知らないので伝えて行った方がいいと言われ、最近は講演の度に話している。皆さんの流域では昔どうだったのか教えてください。
・昔は水害という言葉はなく、大水とか洪水と言った。水害という言葉はダム建設後害が出るようになったから生まれた言葉。
・天気予報の発達してない時代、人々は雨の降り方、雲の動き、川の水の増減を観て、自分の家から見える岩などを基準にして、どんな対策が必要か判断していた。「あ、今日は床下でおさまるな」とか、「床上までくるな」とか、その判断が外れることはなかった。
・浸水は年に一度ぐらいは起こっていたので、どこでも2階建てにして、大事なものは2階に置いていた。1階には必要なものだけを置いた。床板や柱などが腐りにくい松の木が使われているところが多かった。
・床上まで来ると思うと、床板を外しテーブルなどの上に置いて、その上に外した畳や戸板など建具を置き、家財道具をおいた。障子はひもで結わえて、柱に結び付けた。建具を外すのは、水の抵抗力をそぎ、水が家の中をスムーズに流れるように。
・1階部分が浸かると思った時は、どこの家でも天井に2畳分ほどに開けられる部分があったので、2階天井に据え付けられた滑車で、重たいものは2階に移動させた。
・家族総出でここまで急いで片づけた。特にお父さんは、洪水時に待ち遠しい楽しみがあったから。それは、どこでも1mを超す大網があって、それで、岸辺に避難してくるアユを大網ですくうこと。1年間のたんぱく源としても大事な行事で、流域の人は「濁り掬い」といって、「楽しい大水」と言っていた。
・早く家に戻って、水が引く時に壁をこするとピカピカになった。障子はきれいに剥がれているので、張り替えて、畳を日に干せば、1年に一度の大掃除になったので、暮れにはしないですんだ。
・流れてきたきれいな砂は庭に巻いたり、コンクリートの資材にした。泥などまったくなかった。
・このころは流域に貯木場がいっぱいあったので、流れてくる木材を子供たちは泳いで岸辺まで寄せ、あとで集めに来た人からお小遣いとして駄賃をもらった。
・したたかな人は、流れてくる流木や材木で、小屋など建てるものもいた。
・つまり、洪水は恵みをもたらすことはあっても、被害を出すものではなかった。
ダムや砂防ダムが各地に建設されてからは、泥や臭いヘドロばかり流れてくること、地球温暖化の影響でより厳しさを増す異常気象の違いはありますが、天災に柔軟に対応していく暮らし、天災をも自然の恵みとして活かす暮らし方に、面白いものがあるなぁと思うのです。串原の年配の方々からも、「洪水の後には打ち揚げられたウナギが捕り放題でごちそうだった」という話を聞いたこともあります。現代の技術も活用しながら、てらぼら農園なりの面白い田舎の暮らしというものを模索し続けたいと考えています。
2024年10月年間お届け米通信
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